房総サンド

やっています。

【日記】わたしとスーパー

スーパーを徘徊するのが好きだ。というのも自分の行動圏は家を中心に学校、駅、商店街など半径500メートルほどの狭い範囲に収まっており、そこから出なければいけないほどの用事は滅多にないが、一方そこにはスーパーしかないのだ。

学校が終わって、このまま帰る気分ではないなという時に立ち寄れる場所も、当然スーパーしかない。


スーパーに入るとまず確認するのがきのこ売り場だ。わたしは平茸と舞茸が好きなのだが、奴らはなかなかどうして値段が張る。198円。常にその値段だと言うのなら甘んじて毎回買ってやるのだが、スーパーというのは何故ああも日々売り出し価格が変わるのだろうか。

98円、128円、178円、198円。それが近隣2店舗のスーパーにおける平茸価格の変動の範囲だ。こんなの絶対に98円の時に買わなきゃ損じゃないか。ヒラタケが128円の時なんか買うかどうかでかなり迷う。それに比べて舞茸は値下げの頻度と値下げ後価格の種類が少ないためパッと買えるのでよい。先日スーパーFに行くと平茸が128円で売られており、少し迷ったが1パックだけ購入した。しかしその直後にスーパーDに行くとなんと最安価格である98円で平茸が売られていたのだ。これは本当にショックだった。しかし128円の平茸を1パックしか購入しなかった野生の勘の正しさを再確認し、98円の平茸を3パック購入しホクホク顔で帰宅した。


あとは野菜と肉をぼんやり眺め、何の肉を食ってやろうかしらと考えながら、鮮魚コーナーで刺身を見る。サーモンが大好きなので、サーモンの刺身が半額になっていると喜んで買う。しかし割引にも落とし穴があり、20時を過ぎると半額割引シールが貼られることは分かっているのだが、割引シールを貼る主任によっては20時を過ぎていても3割引のままのことがある。なんだか悔しいのでそういう時はサーモンをスルーする。

ふと、ベン・トーというライトノベルのことを思い出した。半額弁当を巡って飢えた狼たちがバトルするという庶民的なバトル小説なのだが、あの話の中で割引シールを貼る人は半額神と呼称されていた。この人が神かぁ、とやや髪の寂しい主任が半額シールを貼っていくのを見ながら苦笑いしてしまう。


あまり買わないが、お菓子売り場を見るのも好きだ。いったいどんな味がするのかよく分からないお菓子のパッケージを眺めてボーッとしてしまう。不審者ですね。控えまーす。

わたしはどうやら視覚情報を処理するのが苦手らしく、スーパーやらコンビニの陳列棚の前に立つと完全に脳死してしまう。その感覚が嫌いではないので積極的に陳列棚の前でボーッとしているが、脳死タイムに入ると結局何も買わないで帰ってしまいがちなのでお店には申し訳ないなと少し思った。


そのあとはスイーツコーナーをぶらついて(これも見る専で買うことはない)会計に向かう。十分ほどボーッとスーパーをぶらついて、手にしたいくつかの商品がレジに通されて、お金を払い、終わる。会計とは本来買い物の集大成であるべきだと思うのに、ことにスーパーの会計は一瞬で終わってしまいがちではないか?といつも物足りなく思う。会計の値段の微妙さがそう思わせるのかもしれない。コンビニで100円か200円の買い物をするのでは一瞬の会計でも何も思わないし、服や化粧品を買って何千円とかのお金を払うと、きちんと梱包などをしてくれるからか、買い物をしたなぁという感じに包まれる。

ところがスーパーは1000円に満たず500円は少し出るかといった、微妙に絶妙な買い物に落ち着くことが多い。品物をしまうのもセルフサービスなので、自分が携えて歩いたカゴと同じカゴに商品を移動しただけのものをまた持って、レジから離れるわけだ。スーパーの会計にはカタルシスがない。


ところで世界とは万物の均衡が取れており、捨てる神あれば拾う神あり、苦しむ者がいれば楽をする者がいるというのがこの世の理だ。スーパーのレジでわたしが感じきれなかったカタルシスを引き受けているのは一体誰か? スーパーの店員である。


わたしはスーパーで働いている。別にスーパーが好きだからスーパーで働いているわけではない。いくつかバイトを転々としたが、色々あって結局家から徒歩5分ほどのスーパーに落ち着いただけで特に意味はない。

多数の客と会話しなくてはいけない仕事もお金を扱う仕事も初めてだったので本当に嫌だったが、慣れてみれば、前述の通りわたしはカタルシスを引き受ける側だった。

そもそも「物を渡して金を貰う」という行為を文化祭か同人誌即売会でしかしたことがなく、いつも「わ~同人誌即売会みたーい」「たまごっちのプチプチおみせっちみたーい」という舐めた態度で働いているのでレジを打って気持ちよくなっているレジ係ばかりではないと思う。多分。

ただ商品をピッして隣のカゴに入れてグイッと移動させ、お会計何円ですと言いカチャカチャゴーンするだけの誰にでもできる簡単な仕事だが、流れるように購入されていくカゴの中の商品に、バイト終わりにスーパーでボーッとしながら徘徊している自分の虚無な時間が巻き取られて回収されていくような清々しい心地がするのだ。まるで物語の終わりに相応しいカタルシスではないか!

と思っているのは多分わたしだけだ。


あとわたしも常にカタルシスを感じながらレジを打っているわけでもない。99%はスーパーのレジ打ちNPCとして何の感情も無く定型文を吐くだけの関数をやっているし、バイト中の記憶は退勤した瞬間なくなる。ただほんの一瞬、自我が帰ってきた瞬間に「あ~、伏線回収」と思って少しばかり愉快になる。それだけの話である。