房総サンド

やっています。

【日記】水没スーパー

数週間前、バイト先のスーパーが水没した。
レジ打ちの隙間、客が途切れた瞬間にふと顔を上げると、惣菜と精肉が並ぶ冷蔵棚の前の通路が一面水浸しだったのだ。水面がきらきらと揺れ、スーパーの小汚い床に似つかわしくなく、なんと清涼感あふれる光景だろうと思って呆けていると、慌てた様子のチーフがモップを持って走ってきた。
 
確かに数日前、冷蔵棚の前に小さな水たまりができていたのは覚えている。急に暑くなったから、結露の一種だろうと勝手に納得していたが、その水たまりは今や数平方メートルにも及んでいた。通路が浸水する頻度も、最初は数日に一回ペースだったが、いつしか数十分に一度水没するようになった。
こうなってはモップでは到底片付けが追いつかず、テニスコートから排水する時に使うようなゴムでできたトンボを使い、数メートル先の床下に流し込むことになった。
テニスコートの整備なんてしたこともなかったが、ふと顔を上げると通路が水没しているのだから、排水作業から逃げてもいられない。水出てます! とレジの相方に告げ、走っていき、言うことを聞かない水をうまく掻いて床下に誘導していく。広くもない通路で柄の長いトンボを持て余し、うっかり自分の足に水をかけてしまうこともしばしばだった。
あたふたしている間にも水はどんどん溢れてくる。
しかもこの水、腐卵臭と生ごみのにおいを掛けたようなきつい悪臭がするのだ。水の勢いに比例してこの臭いの強さも増し、マスクしてなお頭の奥に刺さるような酷い臭いに私たちは苦しめられた。
この冷蔵庫の奥にいったいどれだけの水があるのだろうと考えている暇もなく、作業を上回るハイスピードで水が溢れ、通路は沈んでいく。
末期にはこの排水に常に一人から二人の人員を割かなくてはならないところまで悪化し、しかし夕方のシフトは変わらず三人で回しているので、排水中は必然的にワンオペになる。
レジと水たまりの間を走って往復しながら、もう辞めてしまおうかなとずっと考えていた。
 
ところでこの水の正体は一体何なのか、何がどうなって溢れてきているのかということが分かったのは、水没から一週間ほど経った日のことだった。
滾々と水が湧く棚の下を覗き込みながら「これ何の水なんですか」と聞くと、無口な先輩が「上のマンションの下水が溢れてきてるらしいです」と小さな声で答えてくれた。
「そんな最悪なことあるんですね」と思わず口を突いて出た言葉に先輩は「はい」とだけ返事をして、淡々とトンボを動かして水を排水溝に送る。
 
 
 
水を掻き出しては浸水した通路を通ろうとする客に謝り、レジを打ってはこの悪臭は何かと怒る客に謝る。そんな日々を続けているうちに、とうとう長文のクレームメールが入った。保健所に通報しますと書いてあるそれを囲んで部長会議が行われているのを横目に、私も保健所に通報して店を辞めたいなあと考えていた。
だがクレームの効果はあったようで、どういう機構なのかは不明だが、棚の下に貯水槽を設けてそこに下水を溜めて定期的にポンプで汲み出すことになった。これでとにかく、数十分おきに通路が水没することは免れたのである。
 
ところでこの下水の汲み上げ・排水作業は相変わらず半手動であった。ポンプのスイッチを入れ、幅十センチほどの平たいホースが水圧で暴れないように手で押さえておいてやるだけなので作業としてはそう難しいものではない。
しかし定期的に店長に呼ばれていって精肉コーナーの前にしゃがみ込むと、得も言われぬ不快感にくらりと頭が傾くのだった。
衛生面には最大限配慮していますという言い訳を事実にするために撒かれている大量の塩素の匂いが鼻をつく。
ホースが平たいために、ところどころ真空の部分が生まれてしまうから、ちゃんと排水されるように外からホースに蠕動運動に似た刺激を与えてやらなくてはいけない。
ごぼごぼと音を立てて、ビニルホースの中を汚水が通っていく。
まるで嘔吐の手助けをしてやっているみたいだ、と思いながらふとホースから目線を外すと、精肉の冷蔵棚の下、床のタイルの隙間に無数の白い模様があるのが見えた。
 
それはきっと私が見てはいけないものだった。 
米粒の断面ほどの大きさの白い虫、名前の分からない白い虫。衛生管理とはいったい何なのか。精肉コーナーの下が、無数の虫の巣窟と化している。
咄嗟にどこかへ逃げ出してしまいたかったが、ただ天井の方に目を逃げさせてじっとホースを握りしめることしかできなかった。
 
バイトを辞めたい。
ただそれだけを願いながら、まだ水出とるか!と叫ぶ店長の怒号に大きな声で返事した。
手に染み着いた塩素とゴムの臭いはしばらく消えなかった。